弱さを内包する中から生まれた「春」
堀切さとみ(映像制作者)

重たい社会派映画を観ることが多い私に「たまにはどう?」と、音楽好きの友人が誘ってくれた。 中高生時代、吹奏楽部で毎年『春』を演奏していた。久しぶりに聴きに行くのも悪くないかも。
作曲家の伝記といえば、ベートーベンやモーツァルトくらいは読んでいても、ヴィヴァルディの生涯などまったく知らなかった。ベネツィアのピエタ養育院で40年、親に捨てられた娘たちにバイオリンを教えていたことさえ。
しかしこの映画の主人公はヴィヴァルディではない。彼に才能を見いだされたチェチリアという少女だ。
養育院とはどういうものか。それを引喩するファーストシーンから、ぐいぐい引き込まれる。貴族の前で孤児たちに演奏させることで、寄付を集め、養育院の経営を成り立たせていた。そんな中、純粋に音楽を愛するチェチリアが、ヴィヴァルディの心を掴んだ。歌もバイオリンも上手なチェチリアは、賞賛されるが表情は暗い。不自由で厳しい暮らし。それでも「いつか母親が迎えに来てくれるかもしれない」という微かな期待もあって、出ていくことはできない。見染められた貴族と結婚して外に出るという道があるが、演奏はできなくなる。
戦争も影を落とす。戦場から帰った男が脚光を浴び、女性たちの生活は蔑ろにされるのを、若きチェチリアは赦さない。
制約された時代と環境の中で、他にどうやって生きる道があるのか。チェチリアは自分で答えを出していく。縛られず自由に生きるための困難さを百も承知で。帽子を脱ぎ捨て養育院から出ていく場面は、『地の塩』で靴を投げたヒロインを思い出させた。
「音楽は何の力にもならないが、何でも表現できる」と愛弟子に語るヴィヴァルディは、たしかに優れた音楽家だが、チェチリアの期待に応えるだけの力はなかった。そんな弱さを内包する中で、誰もが知るあの名曲は生み出されたのだと思う。エンディングで流れる『春』は、イ・ムジチのような名演奏には及ばない素朴なものだったが、震えるほど素晴らしく涙が出た。人生の中には、いくつもの出発点があるのだと思わせてくれる。
苦さを含んだ女性解放の物語
永田浩三(ジャーナリスト・武蔵大学名誉教授)

監督のダミアーノ・ミキエレットは、イタリア・ヴェネツィア生まれのオペラ演出家。長編劇映画を手掛けるのはこれが初めてなのだという。映画ってこんなにも美しく、こんなにも残酷なものなのか。これでもかとたたみかけてくる劇的な場面と、めくるめく音楽の饗宴に時を忘れた。
映画は18世紀初頭のヴェネツィア。物語はほとんどピエタ院の中だけで展開される。でもせせこましくないのだ。主人公のチュチリアは、生まれて間もなく捨て子となり院の玄関の赤ちゃんポストで保護され、院の中で育った。チュチリアを演じる俳優テクラ・インソリアの息を呑むような輝き。まるでラファエロやラトゥールの絵画の中の人物のようだ。
チュチリアに卓越した音楽の才能があることを見出したのは、アントニオ・ヴィヴァルディ。ヴィヴァルディは女性たちの楽団の第一ヴァイオリンに彼女を指名する。
新たな曲が生まれるたびに、チュチリアはこれ以上ないほどの名演で応えた。才能が開花していくたびに、聴衆の王様と貴族たちは拍手喝采を送った。
演奏する場所は教会の祭壇の最上部。音はまさに天から降り注ぐ神様の恵み。だが指揮者のヴィヴァルディを除いて、彼女たちの姿は観客から見えない。チュチリアたちは存在を認められない黒子なのだ。
彼女たちの将来は4つの選択肢しかなかった。修道女となって院を出る。求められた結婚を機に院を出る、そのまま一生院で過ごす、そして親が迎えに来る。四番目の道はほとんど奇跡に近く、彼女たちの幸せはよい結婚をするかどうかにかかっていた。
そしてチュチリアにも縁談が舞い込む。相手は偉い将校。ヴェネツィアはこの頃隣国と戦争を繰り広げ、軍人たちは尊敬の的だった。だがチュチリアはそうではなかった。ヴィヴァルディとともに音楽を続けたい。そこで彼女は身を挺してある策を選ぶ。ところが、待っていたものは、とんでもなくむごい仕打ちだった。
この映画に奥行きを与えているのは、冒頭に野良猫の赤ちゃんを無慈悲に処分する修道女のトップ。彼女は肝心なところでチュチリアの味方になる。女性たちはみな必死に闘っていた。それに比べてヴィヴァルディも軍人も院長も、男たちはすべてくそったれなのだった。それはいまもむかしも変わらない。
全編に展開するヴィヴァルディの音楽。静かに、ときに激しく荒々しく。編集がとにかくうまい。映画はほとんど密室で展開するが、最後の最後にパーンと外に出る。それは自由なのか、新たな苦難の始まりなのか。チュチリアの旅立ちを祝福してよいものか。これは音楽映画というより、苦さを含んだ女性解放の映画に思えた。
★『ヴィヴァルディと私』公式サイト⇒https://vivaldi.ayapro.ne.jp/


