
<評者:加藤直樹>
毎木曜掲載・第453回(2026.10.8)
キム・ミンジュ『北朝鮮に出勤します 開城工業団地で働いた一年間』(岡裕実翻訳、新泉社、2024年)

かつて南北融和政策の一環として、朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮の開城市に置かれていたのが開城工業団地。韓国企業が北朝鮮の労働者を雇用して工業製品を生産する場所だった。
本書は、その開城工業団地で働いた韓国人女性の回想である。著者は職員食堂の管理者として、工業団地が閉鎖されるまでの1年近く、平日は現地に滞在して北朝鮮の女性たちと共に働き、週末はソウルで休むという生活を行った。
著者は、韓国社会の常識では理解しがたいところもある北朝鮮の人びとの行動を、それでも人間的な共感をもって理解しようとする。共に働かなくてはいけないのだから当然だと思われるかもしれないが、私は著者の資質があってのことだと思う。
韓国民主化の時代に生まれ、親に「民主」と同音のミンジュと名付けられた著者は、北朝鮮でも、一人ひとりの労働者とも心の通う交流をしようとする。障壁はたくさんある。食材を大っぴらに横領する役人と、それへの見て見ぬふり。上司や同僚の目を意識した芝居じみた演技。韓国人にはお礼一つ言うことさえはばかられる雰囲気。
著者は、時に怒りを示しながら、それでも彼らを理解しようとする。そして食堂で働く女性たちを束ねる「班長」とぶつかりながらも、次第に距離を縮めていくのである。
慣れない土地で苦労する著者をいつも気遣ってくれたスンヒ。妊娠を打ち明けられなかった不器用なヒャンイ。「遠くを見るといいんですよ」と自転車の乗り方を優しく教えてくれた警備のおじさん。一緒にお菓子を食べようと電話してくる事務職のスヒは、著者におかしな化粧を施して一緒に大笑いしたりする。
彼女たちは次第に、いつか訪れる著者との別れを惜しむようになった。「いつか店長先生がここを出たら、私たちに会いたいと思ってくれますか? 思い出してくれますか?」。前任者とはそんなことはなかったと、食堂の女性たちは言う。
だが2016年2月10日、旧正月の最終日に、著者はソウルの地下鉄の売店で「開城工業団地、全面操業停止」と報じる新聞の見出しを見つける。北朝鮮の弾道ミサイル開発への対抗措置として、朴槿恵政権が工業団地からの引き上げを決定したのである。
開城での日々は、こうして唐突に終わる。北側の仲間たちとも、もう二度と会えなくなった。記念写真一つ撮れなかった彼女たちの顔は、いつか忘れてしまうかもしれない。
「そうやってあいさつもできずに別れた、なつかしい人がそこにはいる。…別れたりせずに互いに行き来しながら、どんな暮らしをしているか、どうやって歳を重ねているか、子どもがどれだけ大きくなったかを観ることができればよかったのに。互いに誤解し、距離を置くような状況がなければよかったのにとも思う。ヒャンイの子どもはいまごろ、原っぱを駆け回る年齢になっているだろう」
著者と共に北朝鮮の普通の人びとの姿に確かに触れたと感じられる、温かい本である。


