
<小泉雅英>
1974年10月の寺尾判決(東京高裁)から52年を迎え、2026年10月29日、「不当有罪判決52年! 東京高裁は再審開始を! 第4次再審に勝利し石川一雄さんの雪冤を実現しよう!」(狭山事件の再審を求める市民集会)が開催された。会場のニッショーホール(東京・虎ノ門)は、定員(1,000名)いっぱいの参加者で埋め尽くされた。石川一雄さんの無念を共有し、再審勝利に向けて、気持ちを一つにした集会だった。
部落解放中央本部・西島委員長による「開会宣言」がなされた後、国会議員からの挨拶があった。有田芳生議員(立憲民主党)は、足利事件、飯塚事件に言及した上で、石川さんの再審勝利に向けて共に闘うと、熱い決意を表明した。岸まきこ議員(立憲民主党)は、「包括的差別禁止法の成立と共に、石川さんの再審勝利へ努力すること、小林さやか議員(国民民主党)は、再審法改正の問題点について、「証拠の目的外使用の禁止」の批判、検察官の「抗告禁止」ではなく「原則禁止」となったこと、その「原則」とは何なのかと、鋭く批判した。その上で、5年を待たずに見直し、改正すべきことを訴えた。つづいて福島瑞穂議員(社民党党首)からは、弁護士として、石川さんの「みえない手錠」を外させられなかったことが申し訳なかったと、お詫びの言葉を述べ、再審に向け、万年筆のインクが被害者の使っていたインクとは違っていたことなど、石川さんの無実を証明する決定的証拠について強調した。また、ラサール石井議員(社民党)も参加していることが報告された。

つづいて、石川早智子さんから、「現在79歳になったが、何としても生きて、一雄の無念を晴らしたい」と胸の奥から絞り出すような訴えがなされた。早智子さんは、一雄さんが詠んだ多数の短歌から、いくつもの作品を紹介しながら、これまでの多くの人々への謝意と、第4次再審請求勝利への熱い思いを述べ、今後の支援を訴えた。
弁護団の報告では、竹下政行弁護士(狭山事件再審弁護団事務局長)から、再審闘争の要点として、次の3点を強調された。①「脅迫状」偽証の問題、②万年筆のインクの問題、③殺害方法の問題である。
①については、取調べ時の録音テープと石川さん自筆の文書や「脅迫状」の筆跡の画像解析、識字学研究といった科学的鑑定の結果、「脅迫状」は石川さんが筆者ではないことが、いっそう明らかとなったこと。
②については、インクの蛍光X線分析の結果、含有元素の違いにより、証拠として提出された万年筆は被害者のものではないことが、さらに科学的に証明されたこと。
③については、法医学者の鑑定により、殺害方法や死体処理の自白は、死体の客観的状況と食い違っていることが証明されていること。これらについて、各鑑定人の証人尋問を求めていることが報告された。
さらに再審弁護団の主任弁護人、中山武敏弁護士は、弁護士登録をした翌1972年から、控訴審弁護団に加わり、後に弁護団事務局長を務めたが、2003年12月からは狭山再審事件の主任弁護人として、裁判闘争を牽引して来られた方だ。その中山弁護士が車椅子で登場し、発言された姿には感動した。中山弁護士は、1974年10月の高裁判決の際、寺尾裁判長に「部落問題はどうなったのですか」と問うたが、寺尾氏は下を向いたまま何も答えなかった、というエピソードを紹介された。裁判開始前には、「部落問題」の書籍を見せるなど、「部落」について学んでいる素振りを見せていたが、全くの欺瞞だったということだ。
この後、石川さんと同じく、冤罪被害を受けて、長く当事者として闘って来られた方々から連帯アピールが行われた。最初に、大阪の「東住吉事件」の犠牲者である青木恵子さんからは、高校に通っている時、石川さんの狭山差別裁判のポスターを見たが、まさか自分も冤罪の被害者となるとは思っていなかったことが語られた。
つづいて、「湖東記念病院事件」冤罪被害者の西山美香さん、「日野町事件」冤罪被害者阪原弘さんのご長男で再審請求人の阪原弘次さん、「今市事件」の冤罪被害者勝俣さんの弟さんが、それぞれ発言し、石川さんの再審闘争の勝利に向けて、連帯の気持ちを述べた。その中で、阪原弘次さんは、冤罪犠牲者の死後再審のむごさ、父を監獄から救いたいという願いで闘って来たことなどを語られた。
つづいて「狭山事件の再審を求める市民の会」事務局長の鎌田慧さんから、石川一雄さんとは同学年という親近感を抱いていること、脅迫状の作為性について、作家の大江健三郎が『小説の方法』に書いていることなどが紹介され、これまでの裁判で、鑑定人尋問を全く行っていないことの問題性などが強調された。今回の再審請求に期待しているが、さらに世論の広がりをつくり、裁判長に強く訴えて行こう、とアピールされた。
最後に、部落解放同盟中央共闘会議事務局長で、日教組書記次長の小林美奈子さんから、「集会アピール」が読まれ、解同中央本部書記長の赤井隆史さんの力強い「閉会あいさつ」の後、参加者一同で「がんばろう!」を三唱し、集会を終えた。集会後、「石川一雄さんは無実だ!」「東京高裁は再審を認めろ!」など、シュプレヒコールの声を上げながら、日比谷公園まで、平日午後のビジネス街の真ん中を、デモ行進した。

「集会アピール」にあるように、「52年前の10月31日、東京高裁の寺尾正二裁判長は、無実の石川一雄さんに無期懲役判決をおこなった。この不当有罪判決によって、亡くなった今も、石川一雄さんは「見えない手錠」がかかっている」こと、この重みをあらためて感じている。1970年代初めから数年間、東京高裁前の日比谷小公園で、何度も集会に参加し、「狭山差別裁判糾弾!」と叫んでいた。狭山現地での集会にも参加したが、それらは全て組織としての参加だった。その過程で、この裁判について学んで来たつもりだが、組織を離脱した後は、集会に参加することもなく、生活に追われる中で、「狭山差別裁判」は、いろんな問題の一つとして相対化され、自らが関わることもなくなっていた。そんな私も、2年前の「今こそ変えよう!再審法~カウントダウン袴田判決」日比谷集会に参加し、冤罪の問題をあらためて考える機会を得た。その日の集会では、壇上の石川一雄さんが、「FREE HAKAMADA NOW!」のボードを掲げる姿が、今も目に焼き付いている。
寺尾判決から52年ということだが、24歳で逮捕された1963年5月23日から、仮釈放で塀の外に出た1994年12月21日、55歳まで、31年7カ月もの間、牢獄に囚われ、自由を奪われて来た。その後も、「罪人」とされたまま、昨年3月11日、86歳の逝去まで、31年以上、「見えない手錠」の束縛を強いられたのだった。この間、地裁、高裁、最高裁、再審と、数多くの証拠が提出され、証人の申請がなされた。それらを全て、これまでの裁判官は無視し、訴えに耳を傾けることはなかった。「無理が通れば道理が引っ込む」の喩え通り、この国の司法は、国家権力を剥き出しに、「法の暴力」によって無理を通し、一人の青年の自由を奪い、老人になるまで、人生無二の時間を奪い続けた。このことの酷さを改めて思っている。この罪は、今後、彼らがいくら許しを乞うたとしても、決して償えるものではないだろう。
第1審で出された証拠だけでも、まともに検討するなら、直ぐに無罪放免すべきものだったのだ。読み書きのできない者が、あの「脅迫状」を書いたりできるのか、しかも、自分の万年筆など持っているのか。今回の再審では、インクの元素分析まで追加して、新たな証拠として提出されたが、これまでの証拠だけでも、十分に判断できるはずではないのか。裁判官たちよ、あなたたちも人間であれば、人間の心を持って仕事し、予断や偏見なしに、この「事件」に向き合えと、心から願う。(2026/10/30)

