永田浩三(ジャーナリスト・武蔵大学名誉教授)





 公開初日、最初の回を観た。映画、そして演劇とはかくも素晴らしく、可能性があるものか、目から鱗が落ち、澄み切った水で心と体が清められた気がした。カンヌ映画祭で絶賛されたのは当然のことだと思う。お客さんは食い入るように観ていた。

 原作は末期のがんに向き合う哲学者・宮野真生子さんと文化人類学者・磯野真穂さんとの往復書簡の本。この本に心動かされた松田広子プロデューサーが、濱口竜介監督に薦めたのが映画製作のきっかけだ。ちょうど名作『ドライブ・マイ・カー』の編集の佳境。2020年のことだった。翌年、磯野さんへの取材が始まり、映画が動き始めたという。

 原作とは違い、映画では認知症のひとが暮らす施設のディレクターのマリー・ルー(ヴィルジニー・エフィラ)と、末期がんの演出家であり元哲学学徒の森崎真理(岡本多緒)の運命的な出会いとその別れが描かれる。映画の舞台は9割がパリとその郊外。1割は京都府の北部の農村。

 身のこなし、表情、セリフが圧倒的に素晴らしい。映画の中で、福祉施設で職員が過重な労働と劣悪な待遇を強いられる理由が、資本主義の理論を用いて語られる。難しい言葉が飛び交うにもかかわらず、すっと入って来る。映画って、哲学や経済学を伝えることができるメディアなんだ。

 マリーは施設のありようを改革しようと苦闘する。認知症の人に向き合うにあたって、その人らしさを尊重する「ユマニチュード」という考え方。だがそこでベテランの看護師ソフィアが壁となって立ちはだかる。マリーを助けたのは真理。いよいよ命の灯が尽きようとするなかで施設を救う。真理は、認知症のひとに、寝たきりではなく「立つ」ことを実践する。そして奇跡が起きる。マリーと真理の会話の清らかさ、切なさ、美しさ。

 映画をさらに奥の深いものにしているのは、自閉症スペクトラムの少年・窪寺智樹(黒崎煌代)とその祖父の役者兼演出家・清宮吾朗(長塚京三)のふたり。なかでも、黒崎さんは、『さよならほやマン』でも注目されたが、今回はもっとすごい。名優・神木隆之介さんがドラマ『風のガーデン』(脚本・倉本聰)で自閉症スペクトラムの息子を演じ、大騒ぎになったことを思い出す。

 映画は、人間は死に際してなにを思うかを突き詰める。真理はなにひとつ確かなものを残せてこなかったという後悔にさいなまれる。そんな苦しみをマリーは、ともに語り合うことで解き放っていく。人間の価値は、どうやらひととひととが過ごした体験の中にあるのではないか。時間は過ぎ去り、多くのことは消え去り忘れられていっても、記憶の痕跡は宝物のように残るのではないか。

 なんて、なんて素敵なことだろう。3時間15分の映画の後半は泣きどおしだった。絶対に観てほしい。

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