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世界をめぐった命がけのフィルム~南京大虐殺の加害と被害
日 時:2026年12月12日(土)13:30開場 14:00開始
場 所:大阪市立中央会館 1Fホール
〒542-0082 大阪市中央区島之内2-12-31
Osaka Metro「長堀橋駅」徒歩7分
アクセス→https://x.gd/6PMrM
地図→https://x.gd/19Kvx
内 容:
・南京大虐殺ドキュメンタリー映画(50分)
「ジョージ・フィッチ」~こうして持ち出された虐殺の真実~」
(中国江蘇電子台制作/日本語編集:銘心会南京)
・講演:松岡環さん(銘心会南京・日中平和研究会代表)
「南京大虐殺-元海軍志願兵と被害者の少女が出会うとき」
資料代:1000円(学生半額)
主 催:南京の記憶をつなぐ2026
連絡先:090-8125ー1757
◆南京大虐殺ドキュメンタリー映画(50分)「ジョージ・フィッチ」~こうして持ち出された虐殺の真実~」
ジョージ・フィッチは、宣教師の子として中国蘇州で生まれた。
長じて彼はアメリカで教育を受け、蘇州や南京へ赴任し、南京キリスト教青年団YMCA支部長を務めた。
フィッチは、日本軍の南京攻略時の直前11月にドイツ人のジーメンス支社長のラーべやマギー牧師、南京大学のベイツらとともに国際安全区の設立に奔走した。
中国生まれのフィッチは流ちょうな中国語を生かして、国民党との折衝に奔走し、難民の為の備品の調達や渉外の仕事に携わった。
日記には、「日本軍は国際安全区にいた千数百人の男を連行し銃殺した」「さらに日本軍が何度も安全区に入り込み、女性を強姦した」と記している。
フィッチは何度も日本領事館へ抗議を申しいれた。
しかし、日本軍の暴行は長く止むことはなかった。
日本軍による南京での暴行や虐殺をマギーが隠れて撮影していた。
その『南京暴行のフィルム』8巻を自身のオーバーコートに縫い付けてフィッチは、上海に運びだした。
日本軍の目をくぐって命がけで搬送をした「日本軍による惨事の証拠フィルム」は、南京戦の研究家には周知の話である。
アメリカの各都市で上映され、ドイツでもラーベによって公開上映された。
フィッチは「南京での日本軍の暴行」を世界に知らせ、中国民衆の苦しみを早く終わらせたいと願っていた。
松岡環(まつおか・たまき)さん
元小学校教師。
南京大虐殺の被害者や南京攻略で戦に参戦した元兵士を調査した。
毎年南京の被害者を訪れ生存者の「心のケア」・慰問と傾聴活動を行っている。
著書『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて-元兵士102人の証言』(社会評論社、日本ジャーナリスト会議賞受賞)などがある。
また『南京 引き裂かれた記憶』『南京の松村伍長』『太平門 消えた1300人』『南京の元兵士証言集』等のドキュメンタリー映画を制作した。
日本および中国、アメリカ、カナダなどで講演や上映会を行い、「南京大虐殺の史実」を伝え、「若い世代と共に平和をどう築いていくのか」を問い続けている。 2
「私は南京大虐殺を起こした旧日本兵士と南京の被害者計550人以上を10年以上調査してきました。
元兵士は日本各地に散在し、被害者は南京市や広い郊外地域や隣接の市に住んでいました。
当時を振り返ると、この調査には肉体的にも精神的にも強い力を要したなと思っています。
記録を数年後に整理しますと、加害と被害の十数人ずつが、時間や場所、虐殺、破壊、略奪などの内容がぴたりと一致したのです。
では実際に、当時南京の同じ場所にいた兵士と被害者が向かい合って互いの体験を話す事はできるのでしょうか。
南京大虐殺のさなかを生き延びた仇秀英は、母を焼き殺された7歳の少女でした。
日本軍に父と共に引き出され集団虐殺される列の中にいました。
そして難を逃れた後も食料をさがし、揚子江を流れる死体を連日見ていました。
また南京へ攻め込んだ海軍兵士三谷翔は、まだ18歳の新兵でした。
艦上から揚子江を逃れていく中国人の筏や船を撃ちまくりました。
加害兵士と被害者の両人とも同じ時、同じ場所で、同じような体験をしていたのです。
加害の側と被害の側か身近に語り、心にふれる事ができるのでしょうか。」

