<評者:大西赤人> 
毎木曜掲載・第452回(2026.10.1)

『書かなきゃいけない』青山透子 著、三五館シンシャ/フォレスト出版、1700円

 今ではそこまで熱中しないけれど、子供時分からの大西は、プロ野球の展開に一喜一憂しながらテレビにかじりついていたものである。1969年10月30日に起きた「日本シリーズ初の退場事件」なども観てはいたと思うのだが、少なくとも翌日以降にスポーツ新聞各紙を賑わした写真――巨人の走者・土井正三の爪先が阪急の捕手・岡村浩二の両足の間を抜けてホーム・ベースに触れている一枚――は忘れられない(写真)。上記の瞬間は当時のビデオの性能では捉えきれていなかったらしいので、あのまさにスクープ・カットがなかったならば、主審・岡田功の大誤審として語り継がれてしまったことだろう。

 今でこそプロ野球に限らずサッカーやテニスにおいてもビデオ判定は導入されているとはいえ、当然ながらゲームを通して総てのプレーのチェックを機械に委ねることはまず不可能だ。しかし、SNSなどでは、審判のコール一つ一つが日々あげつらわれる。一方(審判)は試合を通して幾度となく瞬時瞬時に判断を下さなければならず、他方(ファン、視聴者)は当該場面のビデオを様々な角度から何十回でも繰り返し、時には一コマ一コマを確認しながらアウトだ、セーフだと文句を言うことが出来る。大昔、激しい抗議を受けた時に〝俺がルールブックだ〟(脚色説あり)と言い放った二出川延明という逸物が知られているけれど、審判などという因果な役目を引き受ける人間はそのうちに居なくなってしまうのではなかろうか。

 時は確実に過ぎ行き、一方、人は避けがたく忘れるから、経験した事を何とかして残そうとする。17世紀英国の政治家サミュエル・ピープスは、十年間に渡ってひたすら詳細に日常を書き綴った日記により、その名を歴史に刻んだ。現代では同様の企図がデジタル化し、個人の行動を総て録音、録画でデータ化して残そうとする「ライフログ」というプロジェクトが折々試みられているものの、膨大なデータ量や映り込む他者のプライバシーの問題により、途絶するらしい。もちろんこれは自ら望んでいるわけだけれども、表象としては、オーウェルの『1984年』に描かれた個人の全行動が「テレスクリーン」によって当局に監視されている状況の裏返しのようでもある。

 大部分の人々は、「テレスクリーン」のような監視体制は嫌悪するだろう。しかし、その反面、事故や事件における因果関係、加害・被害の実状などは、極めて明快になるかもしれない。誤認逮捕、冤罪や迷宮入り、そして、いわゆる陰謀論が介在する余地もほとんどなくなりそうではある。前置きが長くなってしまったが、なぜこんなふうに連想が蠢いたかといえば、1985(昭和60)年8月12日に発生し、乗員乗客520人もの命を奪ったあの「日本航空123便墜落事故」の真相を追おうとする本書を読んだからなのだ。

 著者・青山は元・日航客室乗務員。当時、既に働いており、同機で勤務した経験もあったし、当日は先輩乗務員が実際に搭乗して犠牲になったともいう。「123便」墜落の原因を〝修理ミスに起因する後部圧力隔壁の損壊〟と位置づける公式見解、及びそれを追認しつづける主要メディア、専門家等々に対し、青山は、事故調査報告書にある「異常外力着力点」(何らかの大きな力が垂直尾翼の一点に集中したとする観測)が看過されていることに強い違和感と疑問を示す。航空機の場合、事故時の原因究明にも益するべく、軌跡を記録するフライトレコーダーは厳重な保護のもとに設置されている。ところが、「123便」の場合、事故調査委員会が保管していたフライトレコーダー及びボイスレコーダーの生データは、原因が必ずしも明確になっていないにもかかわらず、日本航空に返却されていたという。そして、後年、相模湾海底で発見されるに至った機体残骸は、未だに引き揚げられていない。世界最大の航空機事故に対する事後の〝検証〟は、ことほどさように中途半端とも言い得る。

 本件関連の著作を何点も書きつづけている青山は、本書の中でも何度となく自らを「研究者」と呼んでいるけれども、多種多様な情報を集め、読み解いてはいるにせよ、隠れた真実を見出す非常に卓越した専門的な〝眼〟を有しているかどうかは判らない。またたとえば、一冊を読んだ墜落当時の運輸大臣・山下徳夫から会いたいと望まれたエピソードを述べ、彼の言葉が「日航123便の問題を追い続ける私の背中を押してくれた」と記す反面、山下がわざわざ著者に会いたがった理由を尋ねてはいない。

 様々な間接的要素から、青山が読者に向けて自衛隊の何らかの介在を推測させる嫌いはたしかにある。それゆえに保守派メディア、論客から誹謗を浴びることにもなっているのだが、その視点は実は極めて簡潔なのだ。

「事故調査の目的は、単に過去を記録することではない。事実を可能な限り明らかにし、そこから教訓を導き出し、未来の安全につなげることである。
 もし、解明されていない疑問が残されているのであれば、それに向き合う努力を尽くしたうえで記憶を後世へ伝えるべきではないだろうか。」

 この視点に基づけば、右も左も親・自衛隊も反・自衛隊もない。ましてや「陰謀論」と揶揄するまでもない。表に現われ得るはずの事実が、なぜ現われないのかというだけの話なのである。