<評者:志真秀弘> 
毎木曜掲載・第456回(2026.10.29)

『百年の挽歌―原発、戦争、美しい村』(青木理、集英社、2026年1月、2000円) 

 東北の小さな村に暮らす家族が遭遇したことを、日本の近現代史を遠景におさめながら、著者は静かに描いていく。声は低くとも、読むものの心に深く染み入る。これは今年第一等の優れたルポルタージュと言っていい。

 福島県、浜通りにある飯館村は、平均標高500メートルの峠の村である。江戸期1783年から87年にかけて東北から関東一帯を襲った天命の飢饉の時は「当時5134人の村人のうち死者、失踪者の合計が実に1905人に達した」と記録されている。冷害による凶作は敗戦後の五十年代にも起きた。が、村ではさまざまな工夫を凝らし稲作を軌道に乗せさらに葉タバコの栽培なども行われ、さらに五十年代から始まった酪農が軌道に乗り「飯館牛」がブランド化され、「美しい村」を目指す試みも進んだ。

 ところが知られるとおり2011年3月11日午前2時46分、最大震度7の巨大地震と9.3メートル(福島県相馬市)という猛烈な津波が東北そして東日本一帯を襲った。2025年3月1日現在で、死者は1万5900人、行方不明者は今なお2520人に上る。敗戦後にあって最悪の自然災害となった。加えて明らかな人災というべき東京電力・福島第一原子力発電所の過酷事故が発生し、複数の原子炉が同時にメルトダウン=炉心溶融にいたり、人類史上最悪の原発事故になった。

 102歳の大久保文夫、息子の一男と結婚相手の美江子、二人の息子佳則と娘の幸代の穏やかな家族の毎日は、しかし原発事故後に崩壊する。

 飯館村の地震と津波の被害は、沿岸部に比べると、むしろ軽微なものと言ってよかった。だが、原発事故による全村避難は村の暮らしの崩壊を意味した。「じいちゃん」の文夫は近隣の人々が別れの挨拶に来るごとに気持ちを弱らせていった。地震から2ヶ月経った2011年4月11日深夜、薬局でもらった薬の空袋を縄状にゆわえて首にかけて「じいちゃん」は自死した。さらに6月4日深夜、以前から癌で闘病中だった一男が、福島からは遠い新潟県村上の病院で美江子、息子の佳則と娘の幸代に見守られながら亡くなる。美江子は文夫に一男の病状は伏せていた。そして文夫の自死のことは一男に告げていなかった。一人で全て背負って看病のために働いていた。

 何が102歳の古老を自死に追い込んだのか。ルポルタージュはその近因と遠因とを歴史を遡りながら捉えていく。

 文夫の十五歳下の弟、大久保久は二十歳になって3ヶ月半後の1944年2月15日、神奈川県横須賀市にあった横須賀海兵団に入隊させられ、その年の11月18日硫黄島に送られる。硫黄島に送り込まれた旧日本軍兵士の「戦死公報」などの公式記録の死亡日時は基本的にすべて「3月17日戦死」となっている。硫黄島守備隊は「総員玉砕」とされ、2万1000人の兵のうち生き残ったのはわずか1033人だった。

 「じいちゃん」の文夫は、最後に横須賀に面会に行った時に、弟が「もう二度と会えないかもしれない」と漏らしたことがずっと胸に突き刺さっていると日頃語っていた。文夫は徴兵を免れていて、そのため若くして戦死した弟久に、後ろめたい気持ちもあったのかもしれないと美江子は思っていた。「全村避難」の衝撃は辛い記憶を揺さぶったのかもしれない。

 2015年7月29日美江子は東京電力を相手に文夫の自死の責任を問う裁判を起こす。その詳しい経緯はルポに明らかだが、判決は東電の責任を認める。

 加速度を増すAI社会の中で、15年前の原発事故も東日本大震災も忘れ去られるかのようだ。データセンターも原発電力を欲しているごとき風潮さえ生まれている。市民の、民衆の暮らしなどどうでもいいのだろうか。忘れることを希望しているのは誰か? この本はそれを考えさせる。