<評者:那須研一> 
毎木曜掲載・第442回(2026.7.16)

『被差別部落に生まれて − 石川一雄が語る狭山事件』(黒川みどり 著、岩波書店、2023年刊)

 今年3月、私は本コラム第427回で、元中学校教員・岩崎正芳さんが石川さんを演じる1人芝居『石蕗の花』に感動したことに触れつつ、その演劇の脚本のもとになった書『石川一雄 短歌に託して』を紹介した。

 獄中歌の迫力。不屈の精神。そもそも「狭山事件」とは何であったか…今回の書評にあたって、石川さんからの聞き書きを中心とする本書を手に取った。

 この事件の本質は部落差別に基づく権力犯罪であること。そして、全くの無実である石川さんが、国家による最大限の人権蹂躙に対して生涯をかけて闘ったこと。そのことが読む者に克明に伝わる。黒川みどりさん渾身の労作である。

 埼玉県狭山市内の被差別部落に生まれ育った石川さんは差別に起因する貧困の中で、小学校にほとんど通うことができなかった。家業の手伝いや日雇いの仕事、そして10歳になると子守りなどの年季奉公。読み書きの学習の機会は閉ざされていた。自分の集落が「被差別」であることさえ認識していなかった、と語る石川さん。差別による人権侵害である。

 石川さん24歳の年(1963年)、近辺で女子高生の誘拐殺人事件が発生。同年に都内で起きた児童誘拐事件の犯人取り逃がしに続いて、この「狭山事件」でも、少女の家族の前に現れた犯人の身柄確保に失敗。警察は威信にかけて「生きたまま犯人をフンづかまえてやる」。偏見と予断をもって被差別部落を集中捜査。石川さんを「微罪」で別件逮捕する。

 警察は、無実の石川さんを殺人犯に仕立て上げるため、血道を上げる。連日、深夜に及ぶ「取り調べ」=決めつけによる詰問。逮捕後約1か月で保釈された石川さんをすぐに「本件逮捕」。弁護士から、出られますよ…と言われていたのに…その後、警察が接見を制限したことと相まって、石川さんは弁護士不信に。

 警察は石川さんに対して「お前なんかここで殺しても誰にもわからない」。一方、顔馴染みの巡査Sがタバコや食べ物を「こっそりと差し入れ」。バイクの月賦未払いなど微罪9件で「普通なら20年収監、でも殺人を自白すれば10年で出してやる」(H警視)。弁護士や検察の役割を理解していなかった石川さんはSを味方と誤信。取り調べに現れたSに「自供」。「殺し方がわからないから教えてくれ」と尋ねる石川さんに「自分は交通係だからわからない。H警視の言いなりになった方がいい」。

 石川さんは死刑囚として8年服役(その後「無期懲役」で32年間獄中)。死刑判決を受けて東京拘置所に収監された1964年、若い刑務官との奇跡のような出会いに恵まれる。その新卒の「看守さん」は、部落問題を研究する友人から「石川さんは無実」と聞かされていたのに加えて、石川さんから直接、なぜ虚偽の自白をするに至ったかを聞くに及び確信する。「字を覚えて、社会の人たちに無実を訴えて。私が文字を教えます」。

 看守さんは独房に入り込み、石川さんに最初に教えた漢字は「無実」。書き順も教えてくれた。250字分のマス目がある紙を大量に渡され、1文字1000字ずつ、1日2万字、3万字書く、という課題が出される。大変だ。真ん中辺に白紙の束を混ぜて提出。看守さんは丁寧にチェック。「無実なのに死刑執行されていいんですか!?」と叱咤される。25歳の石川さんより3つ年下の看守さん。その熱意により獄中で学業に覚醒。毎夜1時2時まで勉強。『広辞苑』はボロボロに。

 看守さんの奥さんも、石川さんのために尽力。辞書、ボールペン、封筒、便箋、切手。すべて、囚われの人の母の名前で差し入れてくれた。看守さんによる個人指導と獄中の猛勉強。文字の習得とともに、石川さんの世界がひらける。家族や支援者との手紙のやり取り。社会に向けての無実の訴え。獄外からの励まし。自分の置かれている境遇が鮮明になる。社会の構造が見えてきた。

「皆さん、国家がその司法権力の名をかりて、堂々と民主主義の基本的人権を無視し、平等であるべき人権を差別と偏見によってはずかしめ、一人の人間の生命を法律で奪おうとしている事実のあることを、どれほど知っていて下さるでしょうか」(「決意表明ー狭山事件被告石川一雄君の訴え」『解放新聞』1970.4.5)

 部落解放同盟による狭山差別裁判糾弾の闘いのみならず、当時の社会変革運動の高まりの中で、獄内からの訴えに呼応して「石川青年奪還」の声が澎湃と上がる。獄壁を超えて石川さんの耳にもシュプレヒコールが届いた。

 死刑囚仲間に「短歌の先生」がいたことも大きい。手ほどきを受け、作歌を始める。悔しさ、悲しみ、孤独…感情を盛る器を手に入れたのである。しかし、死と隣り合わせの日々。当初の10年の収監期間中、46人に死刑執行。石川さんに3年間、短歌を教えてくれた先生も刑場に。「中3の娘が今日も面会に来てくれたんです」「私の無実を証せたらいいのですが」と語っていたという。

 1994年、仮出獄を勝ち取る。本書の終盤は、石川さんの伴侶・早智子さんの語りが大きなウェイトを占める。一雄さんと国連・自由権規約委員会の意見交換会に出席するために、スイス・ジュネーブを訪問。石川さんも早智子さんも楽しそう! 早智子さんの語る2人の生活からは、冤罪と闘う英雄、だけではない石川さんの姿が髣髴とする。

 石川一雄さんは、第3次再審請求中の2025年3月11日、冤罪を晴らせぬまま、無念のうちに世を去った。息子の無実を確信しながら相次いで亡くなったご両親の仏壇に線香を上げ、手を合わせることを拒んだ一雄さん。「見えない手錠をはずすまで合わせる顔がない」。

 中国文学者の竹内好のことば。「自分が差別をしているという自覚がない、あるいは、差別という事実の存在していることを知らない、これが実は最大の差別であり、人権の欠如であります」(『文化と部落問題』1960年)。

 私たちには、石川さんの「見えない手錠」が見えていただろうか? その手錠をかける側に立っていなかっただろうか? 私たちには「手錠」がかかっていないだろうか? 「手錠」を強制する者と闘っているだろうか?

 私たちは石川さんから、バトンを受け継がなくてはならない。それは、司法・警察に石川さんの無罪を認めさせることであり、真の「再審法改正」を実現することであり、私たちの社会が、部落差別・レイシズム・性差別・非正規労働者差別・障害者差別…あらゆる差別と訣別することである。