<評者:大西赤人> 
毎木曜掲載・第445回(2026.8.6)

『麻雀放浪記』(阿佐田哲也 著、電子書籍=角川文庫、文春文庫

 本欄を好んで読んでおられるような方の中には、〝ギャンブルなどに興味はありません〟という人が多く、大西のごとき賭博好きな手合いは少なそうに思われる。もっとも、そういう想像自体、一定のバイアスに基づく偏見の類かもしれないが――〝過度の〟という接頭語をひとまず設けておけば――賭け事好き=遊び人=非生産的=社会不適応というような位置づけは、世の常道であろう。ただし、大西のギャンブル好きなどはかわいい(?)レベルで、競馬以外の公営競技=競輪、競艇、オートレースに手を出したことは皆無だし、それ以外には一時期パチンコに熱中した時期があったり、友人と麻雀やカードゲームの卓を時おり囲んだりという程度に過ぎない。一度きりとはいえ、二十数年前、知人に誘われて本場ラスヴェガスの――二十四時間営業の――カジノを訪ね、徹夜も含めて数日間を過ごしたことは楽しい思い出だ。ここでギャンブルの勘どころ――魅力? 魔力?――とは何かを論じても仕方ないけれども、ごく端的に言えば、人間にとって未来の事象を僅かな一端ながら予測し、その結果を正しく先取りすることの快感、ホンの束の間でも不可知な未来を自分で左右し、手にしたかのような幻想を抱き得る点にあるのだと思う。

 当然ながらギャンブルをテーマとした小説や映画も数多く存在するけれども、対象が基本的には「娯楽」であるから、どうしても面白さが主眼になり、非現実的な物語の構成や展開でも構わないという弱みが生まれがちである。そんな中、読み応えのある日本の代表的な作品として、阿佐田哲也の『麻雀放浪記』を紹介しよう。厳格な海軍軍人の家に育った阿佐田は、本名・色川武大。容易に想像される通り、筆名は〝朝だ、徹夜〟をもじったものという。若い時期には新日本文学会にも入会していたそうで、1961(昭和36)年に中央公論新人賞、1977(昭和52)年に泉鏡花賞、そして1978(昭和53)年には直木賞を受賞。実力を持つ書き手だった一方、生活のため娯楽小説も手がけ、1969(昭和44)年、『週刊大衆』誌上で阿佐田名義にて連載を開始した『麻雀放浪記』により、爆発的な人気を博し、麻雀ブームの一翼を担うこととなる。本作は、こう始まる。

「もはやお忘れであろう。或いは、ごくありきたりの常識としてしかご存知ない方も多かろう。が、試みに東京の舗装道路を、どこといわず掘ってみれば、確実に、ドス黒い焼土がすぐさま現われてくる筈である。
 つい二十年あまり前、東京が見渡す限りの焼野原と化したことがあった。当時、上野の山に立って東を見ると、国際劇場がありありと見えたし、南を見れば都心のビル街の外殻が手にとるように望めた。つまり、その間にほとんど建物がなかったのだ。
 人々は、地面と同じように丸裸だった。食う物も着る物も、住む所もない。にもかかわらず、ぎらぎらと照りつける太陽の下を、誰彼なしに実によく出歩いた。」

 この書き出しから、舞台となる敗戦直後の東京に漂う荒廃の雰囲気、そしてそれが僅か二十余年で表面的には覆い隠されたという経緯が一気に伝わってくる。主人公の「坊や哲」は阿佐田を想わせる年格好であり、「自伝的小説」という枠組みでも語られるけれど、他の「ドサ健」「上州虎」あるいは「出目徳」らも含めて、かなりの脚色ないし創作が施されているとは想像される。彼らの活躍は非現実的とも感じられるものの、そのエネルギーと力感に読む者は圧倒され、惹き付けられるのだ。また、本作において、いわゆる麻雀活字――🀀🀅🀙🀋🀘――が初めて用いられたとも言われている。後年(1984年)には真田広之主演による映画版『麻雀放浪記』(監督=和田誠、脚本=和田、澤井信一郎)が公開され、これもヒット作となった。

 大西は、家族に元々麻雀を知る者は居らず、中学までの友人関係の中にもやはり見当たらなかったので、そのルールは本で覚えた。そして、とにもかくにも全くの遊びレベルで知人と牌を手にすることはあったとはいえ、本作を読んだ二十代半ばの頃は本当の生かじり。それでも阿佐田のリアルな戦略に基づいた物語には、没頭させられた。『麻雀放浪記』以外の彼の作品も読み漁り、数多の中にはたしかに同工異曲も見受けられたものの、それでもほとんどの場合、失望させられることはなかった。たとえば、『東一局五十二本場』という良く知られた短編も記憶に残る。腕に自慢の若者がプロ三人を相手に卓に着き、第一局の親番で簡単に大きな手を上がる(麻雀は、親番で勝ちつづけることが大きな勝利の要因となる)。彼は次も上がり、その次も上がる。若者は気を良くし、次も上がり、また次も上がる。しかし、彼は次第に不可解を感じはじめる。自分しか上がらないため、どれだけ局を重ねても、場が進まないのだ……。一編には、意外な結末が待っている。

 そして今、あの貫禄に満ちた阿佐田=色川が1989(平成元)年に亡くなった時、まだ満60歳の若さだったことを認め、改めて感慨を催す。