
<評者:志水博子>
毎木曜掲載・第447回(2026.8.27)
『戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない』(赤根智子著 文春新書)

8月19日のニュースを見て驚いた。米国トランプ政権が、本書の著者である赤根智子国際刑事裁判所(以下、ICC)所長を制裁対象に加えたというニュースだ。トランプ政権はICCそのものの弱体化を狙っており、国際的な司法ルールであるICCは重大な試練に直面しているともあった。
ついに来たかと思った。日本の高市早苗首相は、「大変残念に思っている」と会見した。オランダのベーレンドセン外相は「オランダはICCを断固支持する」と表明した。オランダだけではない。グテレス国連事務総長が「深刻な懸念」を示すなど国際社会から批判が相次いでいる。国内からは、「人権外交を超党派で考える議員連盟」が24日非難声明をまとめた。当事国であるはずの日本の反応は、諸国と比べて段違いに弱いと指摘し、日本政府に制裁への明確な抗議と即時撤回を要求するよう求めた。
本書を読むと、著者は米国がやがて自分を制裁の対象とすることを見越していたのではないかという気がしてくる。そしてそれはICCの危機となることも。もし、ICCがつぶされてしまったら、国際的な法の支配のもとで、正しく裁判をすることによって平和を構築しようとしてきたICCの取り組みが無に帰する。そんなことは断じてあってはならないという著者の強い意思が随所に見て取れる。
本書は、著者からの日本政府と私たちに対するメッセージのように思える。数日前、文藝春秋は本書の重版を決定したとあった。赤根智子ICC所長に対する米国トランプ政権の制裁措置に多くの人が関心を持ったからに相違ない。緊急大重版大歓迎である。多くの人に読んでほしい。というより、今、私たちが読むべき書である。
という私も、ICCの存在や、その所長である赤根智子さんの存在を知ったのは、ほんの数ヶ月前であった。7月にオンラインで著者の話を聞く機会があった。そこで初めて戦争犯罪を裁くICCの詳細を知った。ICCは、戦争犯罪や人道に対する犯罪などを行なった個人を法で処罰できる常設の国際的な刑事法廷として、世界初、唯一の存在である。私たちは、世界で起こっている理不尽な戦争やジェノサイドに対する怒りや嘆きを、デモや署名やスタンディング等で表す以外、他に術を持たなかった。しかし、本書には、法によって責任を問うICCが、国際平和秩序を支える役割を担っているとある。しかも、ICCは国家そのものではなく個人を裁く、つまり、戦争や虐殺の責任を、国家の抽象的責任だけで終わらせず、命令し実行した個人の刑事責任として問う。著者は、処罰されるべき責任を有する個人を裁くことが、被害者の尊厳を守り、将来の犯罪抑止にもつながるという。ICCの存在意義が説かれている。
本書は、「プーチン氏から指名手配を受けた日」をプロローグとして始まる。ロシア大統領プーチンから指名手配?とんでもない国際事件であることは間違いないのだが、その書き振りがまるで日常の暮らしの延長上に起こったことであるかのようだ。なんと言えばいいのだろうか。たおやかさ、著者の冷静というか肝が座っているというか、その独特の個性が行間からも伝わってくる。ひょっとしたら、それは著者が女性からではないかとも思った。第3章「私はこんなふうに歩いてきた」はぜひ男性に読んでほしい。要職にあっても権威に溺れないところが魅力だ。
トランプが再びICCに制裁措置を出せる大統領令を出した本年2月6日、翌日にはICCの締約国のうち79の国がこの大統領令を批判する共同声明を出した。ところが日本は参加しなかった。著者はその時のことをこう記す、日本政府はICCを守ると世界に向けて力強く発信すべきだと。そして政治力・外交力を駆使して、私たちのICCが無事に存続できるよう動いていただきたいと思うと。
こうも記す、もしICCが完全につぶれてしまったら、同じような裁判所は二度と作れないだろう。世界は「戦争で勝った側が負けた側を裁く」状態へと逆戻りしてしまうかもしれない。そうなれば、法の支配ではなく力が支配する世界となってしまう。国際的な法秩序の守り手として、私たちは何としても踏みとどまらなくてはならないのだと。
著者のICCを守らなければならないという思い、それは単に組織を守るということではなく、「法の支配」が「力の支配」の前に屈することはあってはならないという強い意思が随所に感じられる。そして、それが日本政府と私たちに何をなすべきか迫ってくる。
著者は、日本が締約国として制度を支えるだけでなく、アジアでの理解拡大や協力の促進でも意味ある役割を持つと考える。東京に事務所を置く意義や、アジア地域で締約国を増やす必要も語られる。日本が国際的な法の支配を支える当事者になるべきという。
終章では、法の支配を守る流れを日本からも支えてほしいという期待が示されている。世界では力による現状変更や軍事的威圧が強まりつつあるが、そういう時代だからこそ、戦争犯罪を裁く仕組みを弱めてはならないと訴える。
ICCはプーチンやネタニヤフへの逮捕状で注目を集めた一方、著者自身がロシアから逆指名手配を受け、さらにアメリカの制裁の脅威にもさらされた。そして、それは今現実になった。つまり、国際的な法の支配そのものが国家権力の圧力にさらされているという現実がある。
だからこそ著者は、日本人初のICC所長として、日本が締約国であるだけでなく、法の支配を支える国として発信し、制度を支える責任を持つことを期待する。未曾有の危機に直面するICCの意義を説き、日本政府と私たちに未来への責任を問う。
米国の制裁について、赤根所長はインタビューにこう答えている。「今回の私に対する制裁は、ある程度予期していたことで驚きはない。重要なのは、これを国際的な法の支配の終焉の始まりとさせないこと。日本と日本の皆様の支援が重要な鍵となるだろう」と。日本政府と私たちの責任は大きい。


