
●第115回 2026年8月17日(毎月10日)
麻生太郎が1979年に初めて衆議院議員選挙に立候補した時に、届け出を終え支持者を前に初演説をした際に「下々(しもじも)の皆さん、私が吉田茂の孫の麻生太郎です」と言ったとは、有名な逸話である。誰もが知る吉田茂元首相をはじめ幾人もの有名人を輩出し、経済的にも飛び抜けて裕福で、「使用人」も大勢いたであろうこの「家系」内では、大人たちが市井に住む一般の人びとのことを「下々の連中」とでも呼ばわるのはごく普通のことであったのだろう。だから、麻生太郎は、齢40歳になろうとする頃まで、その価値観を疑う機会に一度も「恵まれる」ことなく、そう呼ぶのが当たり前だと思っていたに違いない。議員になり、自民党役員の座を占め、閣僚になり、ましてや首相になって以降は、「下々」云々とは次元の異なる、その政治観や歴史観をめぐる発言で、幾たびも問題を引き起こしてきたことも周知の通りだ。だが、本人は、発言の間違いや危うさを指摘されても、きわめて狭小かつ特権的な場で育ち、自己形成を遂げてきているのだから自己懐疑を知らず、事(事態)の本質が理解できない表情をいつもしていた。いわば〈自己内〉でのみ形成してきた「世界」と、見知らぬ他者が大勢いる客観的な場としての「世界」とは異なること――その区別がつかないのだ。多くの人びとの場合は、幼児期を抜け出るにつれて、ふたつの「世界」の差異に気づき始める。〈自己内〉で完結していた「世界」を抜け出て、〈他者〉がいる「世界」に触れる。交感し、時に反発し合い、やがて共通の場(領域)を共有する。仮に価値観が異なる者同士の間にあっても、議論・討論・闘論が可能になる場がそこに生まれる。
麻生は、生まれ育ったそのあまりに特権的な場のゆえに、幼年期・少年期・青年期を通して、そのような経験を積まなかったのだろう。同じ資質を持つ政治家としては、麻生の盟友であった故・安倍晋三や、その安倍が親し気に振る舞っていた米国大統領ドナルド・トランプなどの顔が、直ちに思い浮かぶ。自らが生まれ育った特権的な環境が世の中には〈普遍的な〉ものだと勘違いし、他者存在を歯牙にもかけない、その度し難い自己中心主義が、彼らの言動・振る舞いには共通して刻印されている。

だが、ここへきて、それらにも勝る、〈自己中〉の最たる新顔が登場している。言わずもがな、高市早苗である。8月15日、日本武道館で開催された「全国戦没者追悼式」での立ち居振る舞いと「式辞」に、その本質がはっきりと滲み出た。2007年第一次安倍政権閣僚の中でただひとり8月15日に靖国参拝を強行した高市(当時は沖縄担当相)は、その後「参拝を途中で止めたりするから相手がつけ上がる」と語っていた。首相の座に就いている今回は参拝そのものは避けて、武道館の駐車場で車を降りると、少ししか離れていない距離にある靖国神社の方角へ手を合わせたという。報道陣の問いに対して、官邸筋は首相の意図を「遥拝した」と表現した。「遥拝」とは不吉な言葉だ。「宮城遥拝」あるいは「皇居遥拝」に連なる。日本が侵略戦争を行なっていた戦時中の文献を読めば、日本本土および「大東亜共栄圏」において、住民が皇居のある方角に向かって拝礼(敬礼)することを強制されていたことがわかる。日本による植民地支配下に置かれていた朝鮮や台湾の人びとが「遥拝」する姿が写真として残っている。日本軍の軍政下に置かれた地域の人びとも同じだ。天台宗では「遥拝」の言葉と実践を重んじるようだから、より広義の使い方もあるのだろうが、少なくとも日本近代史を歴史的に回顧する場合には、加害の側が被害者に強制した史実として「遥拝」の意味を捉えることが必然だ。だから、それを「不吉」な、「堪え難い」言葉遣いだというのである。高市官邸が、意図的にこの言葉を押し出してきたからには、そこに時代状況を読み取らなければならない。
問題は、まだ、ある。式辞の中身である。高市が師と仰ぐ安倍晋三は、日本の在り方を言うに「世界の真ん中で咲き誇る」という言葉を好んだ。書き写していても、恥ずかしさが体じゅうに溢れ出るようだ。今回、高市は言った。「日本は、各国が直面している様々な課題の解決に向け、重要な役割を果たせます。インド太平洋の輝く灯台として、頼りにされる国になれます」。灯台下暗し。「近くを見ぬ者」、すなわち、身の程知らずの者の戯言として、インド太平洋地域に住む人びとは聞くだろう。
極めつけは、「戦争の惨禍を、二度と繰り返させない」との文言である。「繰り返さない」ではなく「せ」の字を滑り込ませているのである。「繰り返さない」であれば、せめても、アジア太平洋地域に対する、あの日本の侵略戦争を主体的に捉える契機にはなり得る。だが、「繰り返させない」では、まるで他人事のようにあの戦争を捉えていることになる。
不思議なことではない。高市はあの戦争の捉え方においてブレることなく一貫していることは、この30年来の節々での発言を顧みれば、わかる。
国会議員になったばかりの高市が1994年に行なった発言の映像が、最近、出回っている。同年の8月15日に「(日本は)アジアをはじめとする世界の多くの人々に、筆舌に尽くしがたい悲惨な犠牲をもたらした。深い反省と共に謹んで哀悼の意を表したい」と述べた当時の村山富市首相に対する批判の言葉である。
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https://www.youtube.com/watch?v=8Bv5iXvQELw (9分)
翌年1995年3月16日の衆議院外務委員会での発言もある。当時の粟山駐米大使が、国会で議論されている「戦後50年に際しての謝罪決議」に触れて、「日本がきちんと第二次世界大戦に至った歴史を見据え、その反省のうえに立って戦後の日本があることを忘れてはならない。若い世代もこれを知っておかねばならない」と強調し、何らかの形で「反省」を明確に打ち出す必要があるとの考えを明らかにした。これに触れて、高市は言う。
「栗山大使の発言、私、手元にございますのでもう少し紹介させていただきます。憲法と反省の関係について言っておられることなんですが、「日本国民全体の反省があるから戦後の平和憲法に対する国民の熱心な支持がある。また、新憲法の下で政治的自由、民主主義体制の支持があるのも反省があるからこそ。日本国民は反省をきちんと持ち続けなければならない」と、日本国民全体の反省があると決めつけておられるのですけれども、少なくとも私自身は、当事者とは言えない世代ですから、反省なんかしておりませんし、反省を求められるいわれもないと思っております。」(議事録に基づく)。
また、安倍晋三も戦後憲法を指して「みっともない憲法ですよ」と言い募ったものだったが、2000年9月の憲法調査会での高市発言も、師・安倍晋三の志を継いでいる。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とする憲法前文を「おめでたい一文」と揶揄し、「改憲の機会があれば真っ先に変えようと思う」と明言しているのだ。
止めを刺して、2002年の「サンデー・プロジェクト」を引用しておこう。この映像は最近よく回覧されている。これに関しては、文字起こしはしないほうがよいだろう。わずか1分半くらいだから、未見の方は高市の表情の作り方や瞬きの仕方を、そして何よりも歴史に関して「まったき無知の場」に居直っているさまを、我慢して見ていただきたい。
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https://www.youtube.com/watch?v=bs8V3BomJ9A
ここまで例示した高市の発言は初当選して間もない1990年代半ばから2000年代初頭にかけて行なわれている。初当選が同期であった安倍晋三が、(極右としての)自分はまだ自民党内少数派だと自覚していた初期から、自民党内勢力図の急速な変化によって、2000年の森喜朗政権、2001年の小泉純一郎政権でいずれも官房副長官に就任し、「党内的な地位」を固めた時期に並行している。そして、安倍は、2002年9月17日小泉首相に同行して朝鮮へ行き、金正日総書記との会談にも同席した。国交正常化交渉を押しのけて「拉致問題」が日本社会を覆い尽す中で、対朝鮮最強硬路線を主張する安倍は、急速に自民党内および社会全体のなかでの存在を際立たせた。自称「自民党内極少数派」が、党の主軸となり、2006年には小泉首相の後継指名を受けて、党総裁→首相に上り詰めたのだった。高市はこの安倍に一貫して随伴した。戦争観が一致していたこと。戦後憲法を憎み、軽侮していたこと。日本・アジア関係史に無知なこと、否、もともと関心すら持たないこと――これが、致命的な、ふたりの共通点である。「致命」が高市だけで済むなら、勝手にやってくれ。だが、この無知の塊は権力を手中に収めている。その周囲には、小泉進次郎などという、およそ「思考」「思慮」とは無縁の防衛相もいる。戦後日本における〈他者=アジア〉の不在は、安倍・高市・小泉に留まることなく、社会全般の病だから、ここまでの現象を出来(しゅったい)させて、現在がある。
私たちは容易ならざる事態を前にしていることを、無念にも、8月15日に再確認した。
(文中、すべて敬称略)


