永田浩三(ジャーナリスト・武蔵大学名誉教授)

 『ルックバック』は、漫画もアニメ化された映画も名作の誉れが高い。それにもかかわらず、是枝裕和監督が実写で挑戦する・・・。すごい勇気だと思った。実は前作の『箱の中の羊』では、たいへん苦労し、どこへどう向かうのか、監督自身混乱していたようだったようなので、この作品も悩みを引きずらないでほしいと、ドキドキ心配しながら観た。で、どうだったのか。漫画やアニメに比べて圧倒的にすごいとまでは言えないが、素敵なところが随所にあふれる映画に仕上がっていた。野球でいえば、ホームランではないが、三遊間をゴロで抜き、二塁ランナーは見事生還といったところか。

 ストーリーは、漫画や絵を志すふたりの女の子の成長物語。主人公設定とストーリーテリングの才能を備える藤野と、藤野に憧れを抱きながら彼女以上に確かな画力を持つ京本。いつしか二人三脚で中学生漫画家として脚光を浴びるようになるが、やがて別れの日がやってくる。そして思いもよらない悲惨な事件が起きる。

 もしあのとき別の選択をしていたら、違う未来が待っていたかもしれない。人生は偶然に溢れているが、その偶然を生かせるか否かは、その人の意志や覚悟による。

 映画の舞台は、漫画の原作者・藤本タツキさんが生まれ育った秋田県にかほ市とその隣町の由利本荘市。鳥海山が流麗な姿を見せ、白鳥の群れが空を行く。四季の移ろいのなかで、藤野と京本はお互いの才能を開花させていく。篠つく雨が降り注ぎ、制服がびっしょり濡れても、藤野は気にすることなく、水たまりをルンルンスキップで駆け抜ける。なんて美しいんだろう。岩井俊二監督の世界ともちょっと違う、青春の瑞々しさがそこにある。

 面白かったのはJR羽後亀田の駅舎がちらっと映るところ。そういえば旧駅舎は、名作『砂の器』に出てきた。夏の盛り、丹波哲郎と森田健作が犯人を追って駅に降り立ち、近くの神社の階段で瓜を割って食べるところが印象的だった。

 映画の中でひときわ感心したのは、引きこもりだった京本の家の廊下の場面。京本のスケッチブックが山のように積まれている。初めて訪れた藤野は、京本がただものではないことを一瞬で悟るのだった。

 藤野は迫力満点の主人公を描き、京本は緻密で奥行きのある背景を描く。どちらが欠けても漫画は成り立たない。しかし、ある日ふたりに別れが訪れる。ライバル心やジェラシー。どろどろした感情が漫画にもアニメにもあった気がするが、是枝監督は優しすぎるのか、陰影には深く踏み込まない。物足りないといえば、そこが少し物足りない。

 今回さすがだと思ったことが、もうひとつある。それは音の使い方だ。漫画が上手くなるにつれて、ベン先が紙に当たるカリカリ、ザザッツという音が鋭くなっていく。ふたりが手で両耳を覆うと心の中の海鳴りを聞こえるところは、完全な無音で勝負している。京本と別れた後、売れっ子作家になった藤野はAIを使ってパソコンで背景を描く。ディスプレイのガラスの上をペンが走るとき乾いた鈍い音が聞こえる。音は観る者に想像の羽根をより大きく広げてくれるのだ。

 是枝監督が健在でよかった。ヴェネツィア国際映画祭では5つの賞に輝いた。この秋はとんでもない映画が目白押しで、大きな話題になっていないようだが、日本映画の中でまたひとつ美しい作品が生まれたことを喜びたい。

★『ルックバック』映画情報⇒https://k2pic.com/film/lb