<林田英明>

ゆったりとした口調で、人生を振り返りながら言葉をつむぐ。86歳を自覚して、それを遺言のように語りかける。元自民党幹事長、古賀誠さんは柔和な表情ながら今の「戦争前夜」のような風潮に危機感を隠さない。9月26日、兵庫県西宮市立勤労会館での講演は聞き逃せないものだった。市民の力で社会を変えよう!市民講座主催。
●一番嫌いな風景は「夕焼け」
全国の護憲団体から声がかかる古賀さん。自民党員だからといって全員が改憲論者ではないのだが、戦後世代が主流となっては貴重な存在になっている。では、なぜ「9条を持つ憲法を人生をかけて守る」と公言するのか。やはりそれは戦争を肌で経験しているからに他ならない。自分の生い立ちから話を始めた。国策で出征していた父が1942年、フィリピン・レイテ島で戦死。母が行商で家族を支えるが、父の記憶がないままの母子家庭で育つ。「お父さん」と呼んだことがない寂しさを隠さず「一番嫌いな風景は夕焼けであります」と言うのは、家に戻る近所の子どもたちと違って、姉と2人、いつ戻るか分からない母の夕餉は期待できなかったからである。
そんな母の苦労を知って、弱者を助ける国の仕事を志し、議員秘書を経て79年の総選挙に出馬し、善戦の末に次点(当時は中選挙区制)。翌年、トップ当選を果たし、以後、2012年の政界引退まで10期連続の当選を重ねた。「どこの馬の骨か分からん古賀誠を支えてくれたのは多くの戦争未亡人の方々だった」と感謝し、初めて後援会ができたのが小学生時代に新聞配達するのを見ていた人たちが支えてくれた地だったという。「政治の原点は戦争未亡人だった。母親だけではないんだ」と、たくさんの戦争遺児がいることを実感し、信念を持って戦う覚悟を知った古賀さんは、最近の若い政治家に「自分がない」と物足りなさを覚える。つまり彼らに信念を感じないのだ。
●理想掲げた9条に魂と覚悟
だから「平和」に対する信念も強いのだろう。あの時代の貧乏で苦しい生活の中で、しかしお互いに助け合い、つぎだらけの服に裸足なのに笑顔だった。逆に、今はモノはあふれているのに心の豊かさがないから笑顔がないのではないかと古賀さんは案じる。「平和」が81年続いているが、戦争自体はなくならない。ゼロにはできないが、理想を掲げて努力するのが政治ではないかと説く。「それがあの大東亜戦争の中で決意と理想として掲げてきた9条が、日本人の魂としての覚悟。ただ条文として書いただけではない」。しかし戦後派は「それは理想だよ」と冷笑するが、「政治を志す者は理想の実現のために政治がある」と古賀さんの声のトーンが高くなる。「平和にはガマンやコストがものすごくかかる。そして理屈で収まらないのが戦争だ」として、何百万人が犠牲となり、血と涙が流される事実を感覚で理解するよう若い政治家に求めた。それを伝える使命を古賀さんは感じている。
A級戦犯の靖国神社合祀に怒りを表し、日本遺族会会長だったこともあって、何度も「天皇陛下が参拝できる環境を」と分祀を口にした。大平正芳氏や野中広務氏の薫陶を受け、「戦争が近づいているのは政治の貧困」と危機感をあらわにし、自民党や高市政権の独裁だけを批判するだけでなく野党に対してチェック機能をはたらかせると同時に政権を奪うことも求めた。戦争を止めることの難しさを考えれば、9条の意義が分かる。負け戦になってもズルズルと続け、玉砕や集団自決の悲劇を沖縄などで生んだ。「関東軍は我先に逃げた」旧満州も俎上に載せる。戦争に兵士として辛酸をなめてきたわけではない古賀さんの想像力の一端でも、勇ましい言葉を無責任に吐く政治家や国民の胸に響いてほしいものだ。
●父の無念をレイテで聞いて
父の慰霊になかなか踏み込めなかったのは、どういう精神状態で会うか不確かだったからだが、野中氏に「魂を迎えに行くのは息子の責任じゃないか」と諭され、共にレイテ島に行き、祭壇をつくって手を合わせ、洞窟まで入ってみたのは10年ほど前だった。補給の届かない戦地で、食べ物も武器もないまま全滅した部隊を古賀さんは「親父はなぜ35歳の年で死んでいかなければならなかったのか」と父の声なき声を聞いてきた。日本兵の6割以上の死因が餓死と病死であり、地域によっては8割を超えるという。散華したわけではない。
「もう少し大勢の方が見えるかと」と古賀さんが講演冒頭、苦笑いしたのは、400人の会場に50人足らずの参加者しかいなかったからである。人の出会いが財産と感じてきただけに、数は少なかったものの古賀さんの思いは、強い声の張りとともに十分に伝わってきた。


