永田浩三(ジャーナリスト・武蔵大学名誉教授)

去年、NHKの戦後80年ドラマとして放送された作品が劇場版の映画になった。原作は伊藤明彦さんの『未来からの提言 ある被爆者体験の伝記』。伊藤さんは、1968年から長崎放送のディレクターとして、被爆者の声を伝える番組に関わったが、異動によって担当を外れた。そこで伊藤さんは会社を辞め、キャバレーの呼び込みや皿洗いなどの仕事をしながら、およそ2000人を訪問し、1000人に断れながらも1000人余りの声を録音した。ただただすごい。
その中で伊藤さんは、極めて具体的で胸に響く被爆証言をするひとりの男性と出会った。伊藤さんを演じるのは本木雅弘さん。ナガサキでの体験を証言する病弱な男性は阿部サダヲさん。物語は二人の息もつかせぬやりとりで進んでいく。緊張感と不安感を高めているのは、カメラの焦点深度の浅さだ。古いアパートの一室。カーテンが揺れ外で雷鳴が鳴り響いても、男性の顔と網をはりめぐらす小さな蜘蛛しか見えない。
ある時、伊藤さんは男性の話の中に不自然なことがあることに気が付く。被爆直後まだ再開できていなかった長崎医大のこと、大事にしてくれたお姉さんの名前が出てこないこと。これはいったいなんだ。
伊藤さんは戸籍謄本を入手(当時は可能だった)し、衝撃的な事実に出くわす。男性とその家族はあの日ナガサキにはおらず、原爆に遭ってなどいなかった。
映画がすごいのはここからだ。男性は病気がちで、いくつもの病院を転々とした。その日々のなかで、さまざまな被爆者の声を聴き、いつしかそれが血となり肉となり、我がこととなったのではないか。彼は嘘つきではなかったのではないか。ほんとうのことを命がけで伝えようとする伝道者ではなかったか。ひょっとして伊藤さんとその男性は同じではないだろうか。
映画の後半の救いは、伊藤明彦さんを密かに応援するキャバレーの女性との出会いだ。演じるのは石橋静河さん。ほんとうに素晴らしい。彼女の母は広島で被爆し、その体験を伊藤さんはきちんとテープに録っていたのだ。アパートの一室で、久しぶりに出会う今は亡き母の声。録音があってほんとうによかった。
映画の中で使われている被爆者の声は、伊藤さんが実際に録音したもの。その言葉のひとつひとつが、原爆がいかに残酷で、人生に決定的な傷を与えてきたのかをわたしたちに突き付ける。
脚本は、テレビドラマの名人・池端俊策さん。そういえばむかし、いまの『あさイチ』の前身の番組で、第二回原水爆禁止世界大会の壇上で、下半身不随で母親に抱きかかえられながら証言した渡辺千恵子さんの番組を池端さんと一緒につくったことがある。
今年、友人のホロコーストの体験をわがこととして語った『エレノアってグレイト』という映画が話題になったが、その緻密さや思いの深さは、『八月の声を運ぶ男』が圧倒的に勝る。
被爆者の平均年齢は今86.6歳。いつの日か、直接の体験を語れるひとが地球上からいなくなる。だからといって被爆証言が命を失うわけではなく、手を変え品を変え、さまざまな努力を講じて、被爆という地獄の体験を継承していくことが大切ではないかと気が付いた。ぜひたくさんの方に観てもらいたい。
★『八月の声を運ぶ男』公式サイト⇒https://www.wowow.co.jp/film/august


