<2026年10月17日>




市民劇団「月桃の花」歌舞団が2026年10月12日、那覇市の国際通りにある文化商業施設「てんぶす那覇」で、歌劇「私はここだ! hope is in ourselves」を上演した。
石田さくらは保育士になつ夢をかなえようと専門学校に通っている。アルバイトで学費と生活費とをまかない、バイト先では客の言葉に傷つく日々だ。
さくらと同居している父・圭一は宅配員。病を得ても休めない暮らしだ。
さくらの兄・駿もまた、バイト先の居酒屋で店長の暴言に苦しんでいる。
コロナ禍がやってきた。さくらは専門学校を辞めた。駿は居酒屋をクビになった。圭一は新型コロナウイルス感染症で死んだ。駿が「俺らどん底だな」とつぶやく。
八重山地方の旧盆にアンガマという先祖供養がある。グソー(あの世)からやってきたウシュマイ(爺)とンミー(婆)に誘われて、さくらと駿、圭一をみた看護師の仲村ゆりの3人は、1945年の沖縄に飛ばされた。
81年まえの沖縄は、うりずんをむかえてサンニン(月桃)の花が咲きはじめる季節なのに、「鉄の暴風」が吹いている。
大舛大尉(注2)・防衛隊・学徒隊・爆雷……といったせりふが出てくる。中国侵略戦争を経験した沖縄出身の日本兵、改姓改名、「集団自決」、投降の呼びかけに応じようとする住民のスパイ視……登場人物の境遇や背景も語られて沖縄戦とはどのようなものだったのかが浮きあがってくる。
軍官民共生共死を強いられて人が次々と死んでいく中、さくら・駿・ゆりの3人は……筋書きをこれ以上書くのは無粋だろう。各地で公演しているから、ホームページ(https://gkabudan.jp/)で日程を確認して多くの人に観てほしいと思う。
■劇とは無関係に連想したこと
私には悪い癖があって、大事な場面でまったく別のことを考えてしまうことがよくある。観劇中に連想したことを以下に書くことにしよう。
「てんぶす那覇」の「てんぶす」ってなんだ(あとで調べて沖縄ことばの「へそ」だと知った)。ここは、俺が高校生だった三十数年まえは「国際ショッピングセンター」があったところだよな。さらに昔は「アーニーパイル国際劇場」(注1)があったと聞いたことがある。するとこの沖縄戦劇の上演場所として実にふさわしいじゃないか……。
グソー(あの世)という沖縄ことばも聞かなくなった。1971年うまれの私は、沖縄ことばはかろうじて聞きとれても話すことはできない。子どものころは「死んだ」とか「疲れた」という意味で使っていた。ハイビスカスのことをグソーバナと言って忌み嫌う人も見かけなくなった。
根無し草の新聞記者・ジャーナリストとして9都府県に住んできたけれど、「次々と死んで」いった戦没者名を刻んだ御影石板が、糸満市摩文仁の「平和の礎」(写真)を筆頭に、これほど「充実」しているところは沖縄以外にないよな(日本に侵略された中国の戦没者名板は桁はずれにでかくて多い)。


私のふるさとは沖縄戦で住民の半分が死んだから、実家から歩いて3分のさとうきび畑のそばにもちいさな「平和の礎」がある。びっしりと刻まれてならぶ名前を見るたびに、よくもこれだけの住民を殺してくれたものだと思う。殺したやつらの多くは直接的には米軍だが、日本軍による住民虐殺があったことも、天皇直属の最高統帥機関大本営が天皇制国家を守る「国体護持」のために沖縄を「捨て石」にしたことも忘れてはいけない。

そういえば、大阪市の瀧本邦慶さんは「グソー」で元気だろうか。日本海軍兵だった瀧本さんは、真珠湾攻撃やミッドウェー海戦におもむき、トラック諸島で敗戦をむかえた。次々と殺され餓死していく仲間の姿を見てきたから、「殺したやつら」への怒りを終生忘れなかった。戦場を知らない政治家のガキどもが「国を守る」と調子にのっていると怒っていた。
「私はここだ!」を見終えたあと、古い取材ノートをめくって瀧本さんのことばを読みなおした。
「戦争になったらどうするのか。私ならな、『おまえが行け!』と言いますね。政治家と官僚にです。兵器をつくる会社の社長にもですね。そんなに戦争をしたいなら『おまえが行け!』。これですわ。そう言うてやらないきません。きれいごとじゃないんです。そのぐらい腹がたっとります。国を守る? うそをつけと言いたいですね。そんなに国を守りたいのなら、まずは『おまえが行け!』。人の命をあてにするな。自分で始末しろ。おまえら政治家が行ってもダメならば、ほかの人が行ってもいっしょや。おまえが年寄りで使いものにならんというのなら、おまえの子や孫をやれ。それができんのなら戦争をやるな。国民を引きずり込むな」
瀧本さん、あなたが2018年末に旅立ってから8年になろうとしています。最近は「国を守る」よりも「台湾有事」がはやっています。「おまえが行け!」という皮肉をぶつけられて自省しそうな政治家はますますいなくなりました。
「月桃の花」歌舞団は、大舛大尉・防衛召集・ガマなど劇中のことばについての説明を載せた小冊子を用意していたけれど、もっとくわしいのがあればより理解が深まるかもしれないと思った。そんなことは自分で調べればいいだけで、いろいろなことを想起させるからすばらしい劇なのだろうとも思った。

■海勢頭豊コンサート
歌劇「私はここだ! hope is in ourselves」の上演まえに「月桃の花」劇団員によるエイサーがあり、平安座島(うるま市)出身の歌手・海勢頭豊さん(82/写真右)のコンサートがあった。海勢頭さんは「月桃の花」歌舞団の「生みの親」(注3)でもある。海勢頭さんといえば「さとうきびの花」が有名なのだろうけれど、私は「喜瀬武原」が好きだ。
海勢頭さんは「喜瀬武原」「ザンの海」「令美(レイミー)」「月桃」をうたい、曲の合間に語った。
「非暴力の闘いをうちなーんちゅが結束してやらないといけません」
「喜瀬武原の非暴力の闘い(注4)は辺野古に受け継がれている」
「闘わない勇気・いちゃりばちょーでー(会えば皆きょうだい)・命どぅ宝のほんとうの意味を思い出さないといけません」
「歴史を学んで困るのはヤマトの政府です。嘘の歴史は安倍晋三から高市早苗に受け継がれている」
「とぅるばっていれば(ぼんやりしていれば)相手にやられる。この国をただす運動をしないといけない」
(注1)アーニー・パイルと国際劇場
アーニー・パイル(1900~1945)は米国人の従軍記者。沖縄戦中に伊江島で日本軍に撃たれて死亡した。
那覇市の目ぬき通り(いまの県道39号線)は、戦後に闇市が立ちあがって発展してきたところだ。米軍政府は1947年、通りの一角に劇場の建設を許可し、これが「アーニーパイル国際劇場」になった。「国際通り」は劇場名に由来するという。1970年に解体されて跡地に「国際ショッピングセンター」が建った。これも2000年に壊されて今の「てんぶす那覇」になった。
(注2)大舛大尉・改姓改名・「集団自決」
大舛大尉 与那国島出身の大舛松市は1943年1月にガダルカナル島で戦死した。沖縄県人として初めて軍人最高の栄誉「個人感状」を受け、「軍神」にまつりあげられた。新聞は「軍神大舛に続け」と報道して大舛を戦意高揚の道具に利用、県民を戦場に駆りたてた。大舛の妹清子も「ひめゆり学徒隊」として沖縄陸軍病院に動員され16歳で死んでいる。
改姓改名 沖縄では明治以降、「仲村渠」を「仲村」とするように姓名を本土風に変える動きが盛んになった。同化政策・皇民化教育の徹底にともない、「遅れた」沖縄は「進んだ」本土に追いついて日本人にならないといけないという歪な意識が広がったことが背景にあった。
「集団自決」 沖縄戦の体験者によると、戦時中は「玉砕」「自決」と言っていた。「集団自決」は戦後に広がった。沖縄戦研究の進展にともなって今は「集団自決」(強制集団死)とすることが多い。「読谷村史」(2002年)は、日本軍による命令・強制・誘導があったことから「軍事的他殺といえよう」と指摘している。
(注3)「月桃の花」歌舞団の「生みの親」
海勢頭豊さんが製作にあたった映画「GAMA-月桃の花」(大澤豊監督)は、1996年に公開された。翌1997年、映画の主題「命どぅ宝」のこころをひろげようと学生や会社員らが「月桃の花」歌舞団をつくった。
海勢頭さんによると、映画の製作では資金が足りなくなって撮影を中断することもあり、負債額は3億5千万円にのぼった。「借金返済に忙しくなった私に代わり、劇団を結成して『命どぅ宝』のこころを広げてくれたのが『月桃の花』歌舞団です」と話している。
(注4)喜瀬武原の非暴力の闘い
喜瀬武原集落は恩納村の山中にあり、米海兵隊基地キャンプ・ハンセンに囲まれている。米軍は朝鮮戦争のころから、喜瀬武原の生活道路である県道104号線の上空を飛び越えて恩納岳の山山に榴弾砲を撃ちこむ実弾射撃訓練をはじめた。「復帰」後の1973年には戦車による女性轢殺事件を起こし、以降は訓練時に県道104号線を封鎖する「安全対策」をとった。
喜瀬武原の住民は1973年12月12日、生活道路の封鎖による不便、着弾による騒音と振動、森林火災などの環境破壊、榴弾砲の誤射の恐れから地区大会をひらいて訓練廃止を訴えた。喜瀬武原闘争のはじまりだった。那覇防衛施設局(現沖縄防衛局)と沖縄県警は闘争つぶしを図った。支援者らが機動隊と衝突しているさなかに訓練阻止団がブート岳にのぼった。ここに人間がいると訴えて実弾射撃をとめる命がけの行動だった。この阻止行動はその後もつづき、1976年には琉球大学生が爆風で吹き飛ばされて重傷を負っている。県警は1976年、刑特法(日米地位協定にもとづく刑事特別法)で4人を逮捕し、1977年にも学生3人を逮捕した。
1995年の米海兵隊3人による少女暴行事件をうけた1996年の日米特別行動委員会(SACO)で、実弾射撃訓練を本土にある陸上自衛隊演習場に移すことが決まった。県道104号線越え実弾射撃訓練は1997年3月の180回目が最後になった。


